人の役になんて立たなくていい。生きてるだけで十分という絶対的な自信が絶対に正しい理由

優しい人ほど周りの目を気にするようです。あの人の役に立ちたい・上司の役に立ちたい、だけど役に立たない自分という存在がいる。このギャップに耐えきれず病んでしまう。そういう友人がいます。役に立たない自分には価値がないと思ってしまっている。
そうではないと強く言いたい。役に立つかどうかに関わらず、あなたは価値があります。

人の役に立ちたい。それは自然な感情です。誰かに優しくされたら嬉しいし、他の人にも同じ気持ちを味わってほしい。相談話を聞いてありがとうと言われたとき、嬉しい感情が起こります。人の役に立つことはシンプルに喜びです。
しかし、それは感情の問題であって、あなたの価値とは関係ありません。

ヒトラー時代のドイツでは、障害者は生産力がなく社会的に無価値であるとみなされて、殺されました。
現代でも、生産性のない人間は生きる価値がないという考えは根強く残っています。津久井やまゆり事件の犯人に共感するツイートは意外なほど多くありました。仕事のできない者には生きる意味がないという発想は、どれだけ社会に役に立つかがその人自身の価値を決定づけ、その人が生きる意味の根拠となるというヒトラーの発想そのものです。

では、ニートは、引きこもりは、あるいは空気が読めないからと疎んじられ転職を繰り返さざるを得ない発達障害をもつ人は、無職であることを理由として生きる価値がないとしていいのでしようか。

では、仕事では有能で圧倒的な生産性を誇るけれども、セクハラを繰り返し、部下に対して怒鳴り散らし暴力を振るい、部下を次々とうつ病にして休職に追い込むメンタルクラッシャーのおやじは、仕事ができるからといって価値が高いといえるのでしょうか。

パワハラ上司は、会社に利益をもたらし従業員に生活の糧を与えるかもしれません。しかし、その下で働く複数の部下に医療費を支出させ人生を壊すかもしれません。トータルで見れば、仕事ができるメリット以上の害悪を社会にもたらしているでしょう。

あなたは、あなた以外の誰かの役に立つために生きているのではありません。
あなたは生きているだけで酸素を吸って二酸化炭素を吐き出します。それはあなたの隣人が吸えたはずの酸素を奪う活動です。あなたがものを食べ消化吸収して残りを排泄する行為は他人の不快です。あなたは生きているだけで他人に対して害を与えます。

他方、あなたが吐き出した二酸化炭素は植物が吸収して光合成の糧になります。あなたの排泄行為さえ下水処理場で働く人たちの給料につながります。あなたが無意識にかけた言葉は誰かを慰めたかもしれません。

私たちは生きているだけで他の人やものとの因果関係の連鎖に取り込まれます。その連鎖は複雑で無限の広がりを有しており、あなたの存在は、因果関係の連鎖の中で他人の幸せにも他人の不幸にもつながっています。

あなたが人の役に立つか立たないかは分かりません。そのような問いは無意味です。

他者の視点で自分の価値を決めるのはやめましょう。
社会のために生まれたわけでもありません。
遅刻しても、締め切りに遅れても、常識がないと呆れられても、役に立たない奴だと言われ何度もクビになったとしても、あなたに生きる価値がないとは、誰にも言わせません。

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