5月病とコンサータと、答えの無い疑問にとりつかれて疲れている私たち

5月病に突入しつつある。

…と書いたが、本当は違う。「5月病」なんかじゃない。

毎月、毎日、起きるのがおっくうだ。梅雨の湿気がどんよりと体内に満ちている。起きても予定がないとベッドから起き上がれない。〆切ギリギリまでやる気がでない。日が落ちると少し元気になる。恨めしい朝日が差し込んでくる頃、ようやく眠りに落ちる。

私の低空飛行は一年中続いている。5月だけの病ではない。

エネルギーをはつらつと経験値に換え、「自己実現」していく人たちへの劣後を感じながら、生きてる実感がほしいなぁ、とぼんやりつぶやいている。ベッドの中で。

日本中が同じレベルに落ちてくる5月

「5月病」はささやかな慰めだ。

ゴールデンウィークで浮かれ果たした多くの会社員が、海の日まで続く平日を目の前にして、かるい虚脱状態に陥る。祭りが終わって日常に戻るだけなのだけど、溌剌たる一般人がなんで揃って凹むのか。友人によると、日常に疑問を感じてしまうらしい。なんのために働いてるんだっけ?そもそも何のために生きてるんだっけ?なんて考えてしまうのだとか。

その回答を聞いて思った。

自分はいつも考えてる。

何で働かなきゃいけないのか。朝起きるときは、「ふとんにくるまってるだけで幸せなのに、どうして出ないといけない?今外に出ても、これ以上幸せにはなれない」なんて考えてしまう。一つ動くにもいちいちその意味を考えてしまう。

あぁそうか、普通の人は、「なんで生きているのか、なんで働かないといけないのか」、なんて考えないのか。ただ、やるべきことをやるだけなんだ。そんな普通の人たちが、私の感覚世界に落ちてきてくれる「5月病」。

コンサータでセンス・オブ・ワンダーを失う

思い出したのは、コンサータを服用したときの感覚だ。

今はもうやめてしまったが、以前、半年ほど飲んでいた。今思い返すと、コンサータを飲んだときの感覚は、この「ただやるべきことをやる」ってやつに近かった。

コンサータを飲むと、町の中の景色が変わって見えた。一言でいうと、面白みがなくなった。

味をひかれる物事がなくなって、「やるべきこと」にしか意識が向かなくなる。それにともなって、感情の起伏も無くなる。グレーになる感じがした。

コンサータをやめると、木の葉っぱ、歩道の煉瓦の並び方、雲の形などの「背景」が美しさを取り戻した。道行く人の顔に恐ろしさが戻った。「ただやるべきことをやる」なんてできない。こんなに驚くべきものごとに囲まれてるんだから。そして気が散り続ける人生に戻った。

役に立たない疑問で頭がいっぱい

他の人と比べると、私はあらゆることに疑問を感じすぎるようだ。

「なんであの人たちはあんなに楽しそうなのか?」
「なんで布団からでないといけないのか?」
「なんで働かなきゃいけないのか?」
「なんで生きているのか?」
「なんで宇宙はあるのか?」

生きることには役立たない疑問で頭がいっぱいだ。考えすぎて疲れているのだろう。

でも、考えずにやり過ごすことは、どうしても難しい。

人生が舞台だとしたら、舞台装置や役者のプロフィールがどうしても気になってしょうがない。芝居中にwikiを読み、肝心の芝居に集中できないようなものだ。

舞台装置のプロ、物理学者か宗教家でも目指せばいいのかもしれない。でも、そうでない選択をすでにしてしまった私のような人間は。

メタな関心は横に置いて、与えられた舞台とシナリオを全うすることに集中した方がいい。わかっているけど。

「5月病」にかかった人は、罹患中の一瞬だけ、舞台の夢から覚めて、我に返った状態なのではないか。「そもそもなんで働いてるんだっけ?」という疑問を持ってくれてる。「そもそも」の問いを共有してくれている。

 

嬉しくて、今年もつい「5月病」と自称してしまう。

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「うつヌケ」にも、考えすぎはよくないという記述がありました。

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